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ロボット論らしきものもたまには
さて、本日福岡に戻ってまいりました。

昨日はアールティで関東練習会が行われていたのですが(練習会の様子はいしかわさんのページsnさんのページにアップされてます)、午後2時から研究会だったので残念ながら参加できず。せっかくロボット連れて東京にいるんだし、何とか参加したかったのですが、研究会の内容がAIBOの生産と受容過程についてのものだったので、スキップするわけにはいきませんでした。

研究会で発表された大阪大学の久保明教さんは私と同じく文化人類学の大学院生で、AIBOとAIBOオーナーとの関係性についての調査をされているのですが、今回は高度なおもちゃとしてのアイボが家族の一員になる過程について細かく分析されていました。ここで重要なのは、アイボのランダムな動きが場面によってはオーナーにとって非常に意味のあるコミュニケーションとして立ち現れてくるということです。もちろんアイボに意思はないわけで、人間側が勝手にそう信じているだけに過ぎないのですが。

しかし、人間がロボットの動きをどのように認識するのかというのは、実は我々ロボットビルダーがモーション作りを通して足を突っ込んでいる結構重要な問題なんです。アイボの場合だと、そのモチーフは基本的に犬(もしくは子ライオン)なんでしょうけど、アイボ自体は実際には犬ではありません。あくまでも犬「型」ロボットなのです。でも、我々の認識システムはその姿や動きを全体として犬のメタファーとして捉えているといえるでしょう(少なくともそれを初めて見たときは)。

では、二足歩行ロボットについてはというと、特に歩行のモーション作成はロボビルダーそれぞれの個性が最も出てくる部分だと思いますが、そこには大きく分けて「人間らしい歩き方」を追求する派と「それぞれのロボットの機体の特徴に合わせた効率的な歩き方」を追求する人たち(もしくは効率的な歩き方を追求した機体を作る人々)がいるといえます(これらがミックスしている場合も多々ありますが)。しかし、ここでいう「人間らしい歩き方」ってのは、一体どういうことなんでしょうか?さらには、何が人間らしくて何がそうでないか、我々はその線引きをどうやって行っているのか?これはすべて人間の認知のシステムと深い関わりがあります。

R-Blueの上段蹴りに惚れ惚れしてしまう時、またはトコトコ丸やアフロのコミカルな動きに笑いを誘われてしまう時、観客はそこに人間の動きの延長を見出しているのか、それともそれらを純粋にロボットそのものとしてみているのか? 非常に微妙な問題なんですが、少なくともここで言えるのは、ロボットビルダーが感じる魅力的な動きがモーション作成を通して実際の動きにうまく反映されたとき、それを見る人の感情や情動の部分において何らかの効果や影響があるということです。実はこの件に関して今面白い本を読んでいるのですが、今それについて書くとちょっと長くなりそうなので内容はまた後日読了後にアップします。
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2006-06-19 23:10 | ロボット論・学問 | Comment(8) | Trackback(0)
Comment
かつのさんコンチワ!
ブログ開設していたんですねー
祝・おめでとうございます!
時々おじゃましますね~
ヨロシク。(^^)/

ウエダッチ 2006/06/20(火) 12:46:23) 編集

ウエダッチさん、コメントありがとうございます!
こちらこそよろしくお願いします。
かつの 2006/06/20(火) 20:44:34) 編集

お疲れさまです。^^
ところで、至急連絡したいコトがありますのでメール頂けませんか? 
アドレスは先日の書き込みで「管理者にだけ表示」で書いてます。
よろしくです~^^;
だうと 2006/06/21(水) 00:17:14) 編集

かつのさん、研究会ではお世話になりました。最近になって、擬人化の問題を一度きちんとやらねばと考えるようになり、少し長くなりますが現時点での僕の見解を書かせていただきます。

アイボに対するオーナーのかかわり方について発表すると、必ず、「これって、機械とかモノに感情移入して意思を見出すってことでしょ?そういうのは人形愛好家とかバイク好きの集まりとかでも普通にやってるんじゃないの?そういうのと一緒でしょ」といった反応をする方がいます。(「一緒でしょ」という言い方に少し強迫的ないし徴候的な気配が見え隠れするのも面白いところですが、)こうしたコメントは簡潔に答えるのが難しくなんとなくごまかしてきたのですが、最近は腹をきめまして、「そもそも技術の側が擬人化をあてにしているところが違う」と応えることにしています。

「アイボには意思がなく、人間側が勝手にそれを信じているだけ」という言い方は、アイボ・オーナーからも時折聞くことができます(外部観察者としての僕の視点を先取りする傾向の強いオーナーほどこういう発言をするようにも思えます)。

ただ、実際にオーナーの人達がやっていることをまじかで見てみると、「意思」とか「信じる」という言葉がどうもそぐわないという印象が強くあります。むしろ、オーナーがアイボの行為に対して無意識のうちにパッシブ(受動的、感情的)に振舞ってしまう結果として、アイボが能動性を帯びてくると言うほうが妥当だと感じます。このあたりを、A・ジェル(『Art and Agency』)やM・ストラザーンの関係論的エージェンシー概念を援用しながら詰めていくというのを現在考えています。

ストラザーンが提示してきたように、人間以外の事物が社会を流動し、相互にあるいは人間と関係していくなかで、ある種の人間性を帯びることが社会的に不可欠な要素となっていくという事象は人類学的視点からはそれほど特異なことではないわけで、むしろ感情移入モデルのほうが特殊で表面的なステレオタイプではないかということです。

この視点からいけば、そもそもチューリングテストからして、一定の制限を加えた上での機械の擬人化を形式化したものだと言えるのではと思います。一定の制限というのがミソで、これは単なる技術的限界であるというよりも、機械の人間性を抑制することで機械性を発露させる仕組みになっている。じゃあ機械性ってのは何だ、その発露(および人間性の抑制)がなぜ社会的に有意となっているのか、という問いにどう答えるかが一番難しいところだと思います。単純な答えならいくらでも出てきますし。が、とりあえずこの問題設定から、文化にも科学にも還元しない形でロボットを捉えるというのが現時点での僕の試みということになります。

でも、やっぱり日本という条件がどう関わってくるのかが難しいですね。送っていただいた論文を読んでから、またメール致します。



kubo 2006/11/08(水) 13:10:57) 編集

>kuboさん
コメントありがとうございます。

確かに、クボさんのおっしゃるように、「意思」とか「信じる」という言葉で捉えるには、人間側の反応はあまりにも非言語的というか無意識的ですよね。これは、ロボットとのインタラクションという感覚的な経験を、言語化することで出てくる言葉だと思います。

ただ、アイボにどこまで能動性を持たせるかとなると、それは非常に難しい問題だと思います。一種のロマンティシズムと取ることも出来るし、ジェルやストラザーンに導かれた理論先行の結論にもなりかねないわけです(これは、現在僕が陥っているジレンマでもあります)。

自分自身で人間型ロボットを作り、そして他のロボットビルダーさん達との交流を通して、何とかこの感覚をエスノグラフィーの中で描写してみたいと考えているのですが、これが出来るのはまだまだ先の話になりそうです。

ちなみに、人と動物の関係に焦点を当てた研究が最近台頭してきているみたいですが、擬人化の問題も含めて、ここら辺は参考にされています?
かつの 2006/11/09(木) 12:24:11) 編集

>Kuboさん
あと、言い忘れましたが、Kuboさんの興味はロボットデザインの分野と関係があるのかなあと考えていました。認知科学が入ってくるので、扱いがちょっと面倒な事にもなりますが・・・ ちなみに、ご存知かもしれませんが、ドナルド・ノーマンのエモーショナル・デザイン(邦訳出てます)にロボットを扱ったチャプターがあります。ただ、内容はそれほど深くはないです。

キャラクターデザインなどを含めた、工業デザインの分野に注目すると面白いかもしれませんね。
かつの 2006/11/10(金) 11:17:23) 編集

>かつのさん

お返事ありがとうございます。

確かに、ジェルやストラザーンの議論、あるいは少なからず関係してくるANTにしても、モノに能動性を認めるという一見ラディカルな前提を提示しながらも、分析方法の標準化の段階ではその前提に比して平凡な分析ツールの提示に留まっていると思います。

ただ、だからこそむしろ面白いといいましょうか。「ロボット」はそもそもかつのさんのいう「一種のロマンティシズム」の強烈な焦点となっているわけで、ロボット研究という視点には、彼等の周到な議論を速攻で笑い飛ばせてしまうような妙な破壊力があると思っています。つまり、モノに注目する近年の議論が暗黙の前提にしている「こっからさきはいかないよね」というポイントの向こう側につきぬける契機となりうるんじゃないかということです。

とはいえ、そうした破壊力は対象自体に未分化な形で埋め込まれているわけで、ミイラ取りがミイラになるといいますか、研究者としての位置取りが非常に難しいところと思います。

もうひとつ思ったのが、僕の研究計画では当初からロボットを研究対象というよりも研究方法として位置づけているところがあります。それは同時に、工学者にとってもロボットがある種の方法となっている点に注目したからでもありますが、結局のところ、日本でロボットが実在するということは、例えばメラネシアでカーゴが実在したということと同じ程度に慎重な扱いを要することではないかと思うわけで(単なる象徴であるとか文化的イマージュだとかいうことは全く思いませんが)、実在を配分する上での基準点となっているのが、「人間が実在する」ということとの関係性だと思われるために、ジェルやストラザーンの議論との親和性を感じているところではあります。

とはいえ、僕の本命としては20世紀初頭をまたいで展開された数学と計算機械の系譜学(ヒルベルト、ゲーデル、チューリングetc)になります。そこの分析と人類学の議論とを接続する接着剤として上記の論者たちが有用かなと思っているということです。まだまだ思いつきにすぎませんが。

では長文失礼しました。





























kubo 2006/12/02(土) 04:44:59) 編集

>Kuboさん
御返事遅れていまして、すみません。上のコメントを頂いた数日前に、以前頂いた論文を読んでいます。それも含めて、また近日中にコメントをお返しします。
かつの 2006/12/10(日) 22:00:05) 編集

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